大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

最高裁判所第二小法廷 平成7年(行ツ)66号 判決 1999年2月26日

上告人

甲野太郎

右訴訟代理人弁護士

海渡雄一

川村理

被上告人

東京拘置所長

山下進

右代表者法務大臣

中村正三郎

右両名指定代理人

長屋栄治

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人海渡雄一、同川村理の上告理由及び上告人の上告理由について

死刑確定者の拘禁の趣旨、目的、特質にかんがみれば、監獄法四六条一項に基づく死刑確定者の信書の発送の許否は、死刑確定者の心情の安定にも十分配慮して、死刑の執行に至るまでの間、社会から厳重に隔離してその身柄を確保するとともに、拘置所内の規律及び秩序が放置することができない程度に害されることがないようにするために、これを制限することが必要かつ合理的であるか否かを判断して決定すべきものであり、具体的場合における右判断は拘置所長の裁量にゆだねられているものと解すべきである。原審の適法に確定したところによれば、被上告人東京拘置所長は東京拘置所の採用している準則に基づいて右裁量権を行使して本件発信不許可処分をしたというのであるが、同準則は許否の判断を行う上での一般的な取扱いを内部的な基準として定めたものであって、具体的な信書の発送の許否は、前記のとおり、監獄法四六条一項の規定に基づき、その制限が必要かつ合理的であるか否かの判断によって決定されるものであり、本件においてもそのような判断がされたものと解される。そして、原審の適法に確定した事実関係の下においては、同被上告人のした判断に右裁量の範囲を逸脱した違法があるとはいえないから、本件発信不許可処分は適法なものというべきである。これと同旨の原審の判断は、是認するに足り、原判決に所論の違法はない。右判断は、市民的及び政治的権利に関する国際規約及び監獄法の所論の各条項に違反するものではない。論旨は、独自の見解に立って原判決を論難するものにすぎず、採用することができない。

よって、裁判官河合伸一の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

裁判官河合伸一の反対意見は、次のとおりである。

一  原審の確定した事実関係等の概要は、次のとおりである。

1  東京拘置所は、死刑確定者の信書の発出(以下「発信」ということがある。)を、次の(1)(2)のいずれかに当たる文書についてのみ許可し、これら以外の文書(以下「一般文書」という。)の発信は許可しないとの取扱基準(以下「東拘基準」という。)を設けている。

(1) 本人の親族、訴訟代理人その他本人の心情の安定に資するとあらかじめ認められた者にあてた文書

(2) 裁判所等の官公署あての文書又は訴訟準備のための弁護士あて等の文書で、本人の権利保護のために必要かつやむを得ないと認められるもの

2  上告人は、昭和六二年四月二七日以来、死刑確定者として東京拘置所に拘置されている者であるが、平成四年八月、読売新聞の「気流」欄に掲載された「被害者の人権考えぬ廃止論」と題する投書を読み、「死刑の廃止は被害者の人権を無視するものとの議論には誤解があると思う」との趣旨の文書(以下「本件文書」という。)を同紙に投稿しようとして、同月一九日、被上告人にその発信の許可を申請した。

これに対し、被上告人東京拘置所長は、東拘基準に基づいて審査し、本件文書の発出については上告人の権利保護のために必要かつやむを得ないと認めるに足りる事情がないと判断して、同月二〇日、これを不許可とする旨決定した(以下「本件処分」という。)。

3  上告人は、本件処分は違法であると主張して、その取消しと慰謝料を求める本訴を提起した。

二  原審は、東拘基準は「死刑確定者の監獄における処遇に通暁した者が、死刑確定者を拘禁する目的、その拘禁の特質、死刑確定者の地位の特殊性に配慮し、ことに死刑確定者の心情の安定を重視して、その裁量権行使のための準則として採用したものとして、優にその合理性を肯定できる」とした上、本件文書を新聞に投稿することが死刑確定者の権利保護のため必要かつやむを得ないと認めることはできないから、本件処分は東拘基準を正しく適用したものであり、適法であるとして、本件文書の発出を許可しないこと自体については具体的にその適法性ないし合理性を認定・判断することなく、上告人の右請求をいずれも排斥した一審判決を維持した。

三  本件においてまず検討すべきは、東拘基準が、死刑確定者の発信を、一般文書につきすべて許可しないこととしていることの適否である。

この点について原審は右のように判示したが、これを是認することはできない。

1  他人に対して自己の意思や意見、感情を表明し、伝達することは、人として最も基本的な欲求の一つであって、その手段としての発信の自由は、憲法の保障する基本的人権に含まれ、少なくともこれに近接して由来する権利である。死刑確定者といえども、刑の執行を受けるまでは、人としての存在を否定されるものではないから、基本的にはこの権利を有するものとしなければならない。もとより、この権利も絶対のものではなく、制限される場合もあり得るが、それは一定の必要性・合理性が存する場合に限られるべきである。

すなわち、死刑確定者の発信については、その権利の性質上、原則は自由であり、一定の必要性・合理性が認められる場合にのみ例外的に制限されるものと解すべきであって、監獄法四六条及び五〇条の規定も、この趣旨に解されることは明らかである。

しかるに、東拘基準は、この原則と例外を逆転し、わずかの場合を除き、死刑確定者の発信を、それを制限することの具体的必要性や合理性を問うことなく、一般的に許さないとしているのであって、右の権利の性質に矛盾し、法の規定にも反するものといわねばならない。

2  原審は、拘置所長が東拘基準を準則として採用し、かつ、これを適用して本件処分をしたことが、拘置所長の専門的裁量権の行使として適法であるとするもののごとくである。

死刑確定者の拘禁は、その刑の執行を確保することを目的としている。したがって、この目的を阻害するおそれのある文書の発信は、制限されて当然である。また、監獄は多数の者を収容する施設であって、その正常な管理のためには内部の規律・秩序を維持する必要があるから、その障害となるような文書の発信が制限されることも、やむを得ない。ことに死刑確定者は、その置かれている立場から、一般に、拘禁の目的を阻害し、あるいは監獄内の規律・秩序を乱す挙に出る可能性が刑事被告人や受刑者より高いといえるであろうから、そのような挙に出ることを防止するという意味で、死刑確定者の心情の安定に特に配慮する必要があることも理解できる。そして、これらについては、監獄内の実情に通暁し、直接その衝に当たる拘置所長の裁量にゆだねられるべきところが少なくないことも確かである。

3  しかし、拘置所長の右裁量権の行使が合理的なものでなければならないことは、多言するまでもない。したがって、拘置所長が、拘禁の目的が阻害され、あるいは監獄内の規律・秩序が害されることを理由に、右裁量権の行使として、死刑確定者の発信を制限する場合でも、そのような障害発生の一般的・抽象的なおそれがあるというだけでは足りず、対象たる文書の内容、あて先、被拘禁者の性向や行状その他の関係する具体的事情の下において、その発信を許すことにより拘禁の目的の遂行又は監獄内の規律・秩序の保持上放置することのできない障害が生ずる相当の蓋然性があることを具体的に認定することを要し、かつ、その認定に合理的根拠が認められなければならない。さらに、その場合においても、制限の程度・内容は、拘置所長がその障害発生の防止のために必要と判断し、かつ、その判断に合理性が認められる範囲にとどまるべきものである(注)。

4  拘置所長の右認定・判断は、本来個々の文書ごとにされるべきものであるが、対象たる文書の性質等によっては、ある程度の類型的認定・判断が可能なものもあるであろう。したがって、そのような文書につき、右の類型的な認定・判断に基づいてあらかじめ取扱基準を設けておき、発信の許可を求められた文書が右類型に属する場合には、その基準によってこれを取り扱うという措置も、まったく許されないものとはいえない。しかし、そのような取扱いが拘置所長の裁量権の合理的行使として是認されるためには、右3で述べた障害発生の相当の蓋然性があることの具体的認定とその認定の合理的根拠の存在、並びに、その基準の定める程度・内容の制限が必要であるとの判断とその判断の合理性が、当該類型的取扱いが対象とする死刑確定者の文書のすべてを通じて、認められなければならない。

5  東拘基準は、死刑確定者が発信を求める文書のうち、前述の除外文書以外の一般文書のすべてを対象として、これを許さないとするものである。

右に述べたところからすれば、そのような類型的取扱いが拘置所長の裁量権の行使として是認されるためには、(イ) 拘置所長が、「死刑確定者に一般文書の発出を許せば、個々の文書の内容やあて先、その発信を求める理由や動機、個々の死刑確定者の個性や気質、日常の行状など、具体的事情の如何を問わず、常に、拘禁の目的の遂行又は監獄内規律・秩序の保持上放置できない障害が生ずる相当の蓋然性がある」と認定したこと、(ロ) その拘置所長の認定に合理的な根拠があると認められること、(ハ) 拘置所長が、「そのような障害発生を防止するためには、死刑確定者の一般文書の発出をすべて不許可とする措置が必要である」と判断したこと、及び、(ニ) 拘置所長のその判断に合理性が認められること、という要件がそろわなければならない。

しかし、東拘基準を設定し、あるいはこれを維持するに当たり、東京拘置所長において、右(イ)及び(ハ)の認定・判断をしたか否かは明らかでなく、たとえそのような認定・判断をしていたとしても、それについて右(ロ)及び(ニ)の要件が満たされているとはとうてい認めることができない。本件記録によっても、これらの諸点について具体的な主張・立証は全くされておらず、原判決も何らの認定・判断を示していない。

したがって、東拘基準による類型的取扱いを拘置所長の合理的裁量権の行使として、是認することはできない。

四  被上告人東京拘置所長は、本件文書の発出の許否を決するにあたっては、本来、前記三3の認定・判断をするべきであった。しかるに、そのような具体的認定・判断をしたとの事実は全く主張・立証されておらず、原審もまた確定していないところであって、同被上告人は単に東拘基準を適用したのみで本件処分をしたと解するほかはない。そして、東拘基準及びこれに基づく類型的取扱いを是認できないことは右に述べたとおりであるから、結局、上告人の本件文書の発出を許可しなかった本件処分は、何らの合理的理由なしに上告人の発信の権利を制限したものとして、違法といわざるを得ない。

したがって、これを適法とした原判決は法律の適用を誤ったものであるから、その余の論旨について判断するまでもなく、これを破棄し、更に審理をさせるため本件を原審に差し戻すべきものである。

注 最高裁昭和五二年(オ)第九二七号同五八年六月二二日大法廷判決・民集三七巻五号七九三頁参照。

なお、右判例が刑事被告人の新聞等閲読の自由の制限について示している適法性判断基準は、拘置所長の裁量に関する部分を含め、基本的には、死刑確定者の発信の自由の制限についても妥当するものである。たしかに、刑事被告人と死刑確定者との間には、大きな相違がある。刑事被告人は、無罪の推定を受け、原則として一般市民と変わらない自由を享受すべき者であるのに対し、死刑確定者は、既に有罪が確定し、しかも極刑の宣言を受けている者である。そのため、拘禁の目的あるいは監獄内秩序等の障害が発生する可能性が高く、その防止のため心情の安定に配慮する必要もはるかに強いであろう。しかしながら、右のような相違は、すべて、右判例の判断基準を適用する場合の判断要素として考慮すれば足りることである。少なくとも、死刑確定者の発信の制限について右判断基準を全面的に排除する理由となるものではない。

(裁判長裁判官河合伸一 裁判官福田博 裁判官北川弘治 裁判官亀山継夫)

上告代理人海渡雄一、同川村理の上告理由

第一 死刑確定者の人権に関する状況

一 はじめに

本件は死刑確定者の刑事施設内における法的な地位とその外部交通権についてのリーティングケースである。本件の真の争点は、上告人が主張するように、死刑確定者が人間として人権の主体として認められるのか、あるいは、被上告人が主張するように、生きながらにして屍としてその生命に対する権利、内心の自由という根源的な人権を否定された存在なのかというところにある。

上告人は、本件だけでなく、自らの施設内の処遇についていくつもの裁判を提起して、自らの人権を主張してきた。その中の最も代表的な裁判が、資料として本上告理由書に添付した親族との面会禁止などを争う裁判である。

この事件は、現在地裁での審理が大詰めを迎えている。

今や、死刑確定者は極めて厳しい権利制限のもとに置かれている。しかし、昔からこのような苛酷な人権制限がなされていたわけではない。

本件は、死刑確定者の新聞に対する投稿の自由が制限されたことに関する事案である。上告人がおかれた苛酷な人権制限の一端だけが争点となっている訴訟ではあるが、本件について最高裁判所の判断がなされることの影響は極めて重大である。

よって、その判断の前提として、死刑確定者の置かれた現状と、この問題についての国連人権委員会、規約人権委員会などの見解も十分理解した上で、本件の御判断をお願いしたい。

二 死刑確定者処遇の変遷

公刊されている資料によれば、東京拘置所又はその他の施設における死刑確定者の処遇の実態は次のように変化してきた。

1 戦前すなわち旧憲法下において、死刑確定者は接見交通の相手方の制限を受けず、友人・知人と原則的に自由に接見交通することが許されていた。例えば、幸徳秋水のいわゆる大逆事件に連座して一九一一年一月一八日、死刑が確定した管野須賀子は、刑の執行の日まで、社会主義運動の同士である大杉栄、堺利彦やその家族など少なくとも十七名の友人・知人と接見交通することが許されていた(『管野須賀子全集』弘隆社一九八四年間所収の同人の手記「死出の道艸」による。)。また一九四四年四月五日に死刑が確定したゾルゲ事件の尾崎秀美も、接見交通の相手方の制限は特に受けていなかった(尾崎秀美獄中書簡集『愛情はふる星の如く』青木書店一九八五年刊による。)。

2 戦後、新憲法が制定されると、死刑確定者に対する処遇は一層緩和され、死刑確定者同士の接見・交流も許されるようになった。しかし、冤罪を訴える死刑確定者の再審を支援する運動が高まり、裁判所も再審開始の決定を出すなどして、死刑確定者の再審が現実化するに従い、当局は「心情の安定」を理由に死刑確定者の接見交通に対する制限を強めていった。強力な再審支援組織を持たない者や、再審請求をしない者は、一九六〇年後半頃までには、どの施設でも、親族と弁護士以外の交通を認められなくなった。公刊されている諸資料は右の各事実を疑いもなく示しており、これに反する資料は、少なくとも公刊されたものの中には全く存在しない。

例えば一九八七年に獄死した帝銀事件の平沢貞通や一九八九年に獄死した佐藤誠(いずれも仙台拘置所在監)は、死刑の確定から獄死に至るまでの数十年間、刑事被告人と変わらない接見交通の自由を許されていた。例えば一九八八年の時点で佐藤誠は、少なくとも二十人を越える友人・知人と接見交通を行っていた(同人の救援会機関誌『しつがわ通信』による。)。

また一九六二年六月に死刑が確定し、一九六七年一一月二日東京拘置所で処刑された中村覚(雅号・島秋人)は、処刑の日まで少なくとも十三人の友人・知人と接見交通を行っていたほか、雑誌・新聞等に自由に短歌を投稿していた(島秋人『遺愛集』東京美術一九六七年刊、一九八八年新装第八刷による。)。

また一九六三年に死刑が確定し一九六九年東京拘置所で処刑されたいわゆるメッカ殺人事件の正田昭は、処刑の日まで友人・知人らと接見交通を行っていたほか、雑誌に投稿したり、自著を出版するなど、刑事被告人と変わらぬ接見交通を行っていた(加賀乙彦『死刑囚の記録』中公新書および正田昭『黙想ノート』美鈴書房一九六七年刊、一九八八年第五刷による。)。

また一九六七年に死刑が確定し一九七五年頃札幌刑務所で処刑された国井茂雄(仮名)は、確定前あるいは確定後に知りあった同信(キリスト教)の友人・牧師ら少なくとも四名と、処刑の日まで自由に交通を続けていた。一九七一年までは、雑誌に詩や短歌を投稿することも許されていた(『死刑囚の記録』による。)。

また一九五三年に死刑が確定し一九五五年に仙台拘置支所に移されて翌年処刑された大木勇(仮名)は、確定前あるいは確定後に知り合った同信(キリスト教)の友人・牧師ら少なくとも四名と、処刑の日まで自由に交通を続けていた(前同書による。)。

また、いわゆる「三鷹事件」で一九五五年に死刑が確定し一九六七年東京拘置所で病死した竹内景助は、死刑確定後も共産党員の同志達と自由に交通を続けていた。一九五七年には雑誌にエッセーも投稿している(前同書による。)

また、一九五八年に死刑が確定し、一九六〇年に仙台移送後処刑された武田二郎は、俳句の投稿を通じて確定後に知り合った少なくとも五人の友人と、処刑の日まで自由に交通を続けていた(山崎百合子『死刑囚からの恋うた』草思社一九八九年刊による。)。

また先年再審無罪となった免田栄氏や同じく再審無罪となった赤堀政夫氏も、死刑確定者となり後に無罪釈放されるまでの数十年間、刑事被告人と同様の接見交通を行っていた(免田栄『獄中記』社会評論社一九八四年刊他による。)。

これらの人たちに対しても、一九七〇年に入る頃から当局は新たな相手方との接見交通開始を禁止するなど、しだいに制限を強めていったのであるが、少なくとも、従前交通があった相手方についてまで、その交通を制限することはなかったのである。

3 従って東京拘置所では少なくとも一九六〇年末頃まで、他の施設では少なくとも一九八九年末頃まで、死刑確定者の接見交通の相手方を親族・弁護士のみに一律に制限する取り扱いはしていなかった。東京拘置所では現在も一部の死刑確定者については、親族ではない再審支援者との接見交通を許している。

三 死刑確定者の処遇の現状とその問題点

1 死刑制度について

死刑制度については、死刑廃止条約ともいうべき国際人権規約第二選択議定書が一九八九年一二月に採択され、一九九一年に発効している。今日、欧米諸国の中で死刑制度を存置している国はアメリカの三六州だけとなっている。死刑制度の存続の是非自体についても、今後国際人権法の観点から問題としていく必要がある。

2 死刑確定者処遇について

死刑確定者の処遇については死刑の執行が事前に本人にも、家族にも知らされないこと、単独処遇が強制されていること、外部との面会と信書のやり取りが厳しく制約されていることの問題点が指摘されている。

3 死刑執行日時の事前告知の欠如

まず、死刑執行の事実については事前には本人にも、家族にも、弁護士にも一切明らかにされない。本人は死刑執行の手続が開始される、執行の約一時間前にその事実を知らされる。家族に最後の言葉を残す余裕すら与えられていないのが現実である。

4 監獄法九条について

後に詳述するが、現行の監獄法九条は死刑確定者の処遇について刑事被告人に適用すべき規定を準用すると定めている。行刑当局は、一九六〇年ごろまでに死刑が確定した死刑確定者については、この条項に従って、刑事被告人と同様、原則として誰とでも面会・通信することを認めていたことは二において前述したとおりである。

死刑確定者の孫斗八が、独力で提起した獄中訴訟に関する大阪地裁判決昭和三三年八月二〇日(行集九巻八号一六六二頁―平峯判決として著名)は、死刑確定者は、拘禁戒護の関係では未決被拘禁者と共通であり、通信の制限については同一の制限に服するとしていたのである。この当時には、このような取扱が何の不思議もなく、実際の拘置所の中で実施されていたのである。

5 通達による面会・通信の制限

このような状態を一変させたのは、矯正局長の発した一つの通達である。一九六三年二月二八日の矯正局長通達「死刑確定者の接見及び信書の発受について」によって、このような実態は大幅に制限されるようになった。この通達は、「一、本人の身柄の確保を阻害し又は社会一般に不安の念を抱かせるおそれのある場合、二、本人の心情の安定を害するおそれのある場合、三、その他施設の管理運営上支障を生ずる場合」面会通信を許可しないこととしている。

最近死刑が確定したものについては、ごく限られた近親者と再審事件などの依頼を受けた弁護士以外との面会・通信は認められない実態にある。死刑確定者と逮捕後に養子縁組を結んだような親族については、親族であっても面会通信を認めないことが原則とされ、例外的に特別の許可を得たものについて一ヵ月に一回、半年に一回等という限定された面会・通信が許可されているにすぎない。近親者がいなかったり、いても連絡を望まないときには、全く外界との連絡が不可能になっているケースすらある。

上告人も、養親家族との面会・通信を禁止され、これを別件として争っている。

6 生活の実態

死刑確定者は、その生活実態においても、原則として昼夜間独居の処遇がなされており、入浴と運動、面会、宗教教晦のとき以外は居房の外に出ることは許されない。室内での運動や部屋の中を歩きまわることは禁止されている。部屋の中で許されていることは本をよむこと、手紙などを書くこと、室内にあるトイレに行くことなどに限られる。

一部の自殺のおそれがあると判断された死刑確定者は自殺防止房と呼ばれる特殊な房に収容されている。本件の上告人もそうである。この独房には一切の突起物がなく、水道の蛇口は壁に埋め込まれ、水道の栓は押しボタン式、窓と鉄格子の間には穴あき鉄板(パンチメタル)が貼られていて、全く通風や採光がない。このため、房内は常に暗く、夏は大変暑く、冬は大変寒く、その居住環境は最悪である。

この房には室内を二四時間監視できるテレビカメラが天井に設置されており、そのため、一般の房に比べて天井が四〇センチほど低く、狭い房内が更に狭くなっている。

例外的に心情が安定しているとみなされている死刑確定者に対しては、週一回程度死刑確定者だけの集団で、懇談やテレビを見る機会が与えられることがある。しかし、これらの処遇は死刑確定者が少しでも反抗的な行動を取れば、昼夜間独居の処遇に変更される。上告人は、一度も集団処遇を認められたことはない。

一言で言えば、上告人は、病身の父親と、海外にいる実妹、弁護士との限られた交通以外には完全に対人関係を接触遮断された状況に生活しているのである(資料七、上告人提起の別件訴状参照)。

四 国際機関の注目浴びる日本の死刑確定者処遇

1 日本政府の国連への事実に反する報告

日本政府が一九七八年に批准した国際人権規約自由権規約(以下単に「国際人権規約」という)は、その四〇条で各国の政府報告書の審査制度を定めている。

この制度は、各国の政府が五年ごとに提出する国際人権規約の実施状況についての報告書を、規約に基づいて設立された規約人権委員会が審査し、改善された点、懸念される点、勧告などを明らかにする手続きである。

日本国政府は、一九九一年、この国際人権規約四〇条に基づく第三回報告書を規約人権委員会に提出した。この報告書の中で、「死刑確定者の処遇」について、「死刑確定者は、おおむね未決拘禁者に準じた処遇を受けている。また、その心情の安定に資するため、希望により教誨師による宗教教誨及び篤志面接委員による助言・指導も行われている」と記載していた。

つまり、日本国政府は、規約人権委員会に対する公式文書において、「死刑確定者は、おおむね未決拘禁者に準じた処遇を受けている」と宣明し、「心情の安定に資するため」のケアは希望によって受けられるものと説明しているのである。

ところが、同じ日本国政府は、国内における訴訟の場面では、この対外的説明とは全く異なり、「死刑確定者については、原則として、本人の親族(ただし、死刑確定後の外部交通確保を目的として未決拘禁中に外部支援者と養親族関係を結ぶに至ったと認められる場合など、死刑確定者の法的地位に照らし許可すべきでないものについては親族といえども許可しない。)、本人について現に係属している訴訟の代理人たる弁護士、その他本人の心情の安定に資すると特に認められた者に限ってその外部交通を許可している」などと述べて原則と例外を見事に逆転した主張を行っている。

そして、ここにいう「心情の安定」について次のように説明している。

「死刑確定者の拘禁を確保しつつ、これを処遇する拘置所が求める心情の安定とは、情動を軽減し、ある一定した精神的に落ち着いた状態の継続を指すのであるから、死刑制度の廃止等の将来の希望的な観測にもとづく生の欲求という要求の充足であってはならず、現実として確定している将来の刑死を見据え、それに向けての心情の安定を図らなければならないのである。」(資料八、上告人が前述した養親家族との面会・通信禁止を争っている東京地方裁判所平成二年(ワ)第四七八八号事件(資料七の訴状)の被告平成四年四月一七日付準備書面(七)より)

規約人権委員会に対する日本国政府の報告によれば、「心情の安定」は、死刑確定者に対してその意思に基づき利益を課する場合の根拠とされているのだが、現実には「心情の安定」を名目に、「生の欲求」という生命活動の根本を否定され、思想、良心の自由を侵害され、私生活・通信及び表現に関する権利をはなはだしく制限され、家族関係までが恣意的に干渉されているのが実態である。

2 相次ぐ弁護士会の人権救済勧告

弁護士会はこのような取扱を改めるようたびたび人権救済勧告を行っている。例えば、福岡県弁護士会は一九九一年九月二四日付けで福岡拘置支所に対して次のような警告書を発している。すなわち、福岡拘置支所は、一九九〇年五月一一日以降、死刑確定者金川一とその養女との面会、文通、差し入れ等一切の勾留を禁止したが、福岡県弁護士会は、この処置は、監獄法九条、四五条、四六条の解釈からしても、また国際人権法(とりわけ自由権規約一〇条)からしても人権を侵害する違法な処置といわざるをえないと断じている。このような弁護士会の勧告はこれだけでなく、一九八六年三月一九日付けの名古屋弁護士会の申入、一九八五年一二月一七日付けの仙台弁護士会の要望など近時多数に及んでいる(資料九)。

3 規約人権委員会なども認めた国際人権規約違反

一九九三年一〇月アムネスティ・インターナショナルは、日本における死刑確定者の処遇について、外部との厳しい連絡の制限を改善するよう勧告した(資料三)。

死刑確定者の処遇の問題は一九九三年一〇月の規約人権委員会の日本政府報告書第三回の審査において、重要な問題の一つとして議論された。ヒギンズ規約人権委員はその最終コメントにおいて、「特に死刑囚が独居拘禁にされていること、接見が許されないこと、死刑執行に際して全く家族に連絡されないことなどがすべて規約に一致するものではないということを断言することができます」と述べて、このような制約は明確に国際人権規約と相容れないとの評価を下している。規約人権委員会自体の作成した公式のコメントにおいても、主要な懸念事項として、一二項において、「被拘禁者の状況に関して懸念すべき事柄が存在する。当委員会は、特に、面会や通信に関する不当な制限や、家族に対して処刑を通知しないことは、規約と相容れない、と考えるものである。」と指摘されている。死刑確定者について、面会、通信の相手方が、肉親だけに限定されていること、家族についても事前に処刑の通知をせず、最後の別れをすることもできなくなっている事実が明確に規約違反と認定されたものと評価できる。さらに、勧告においても、「死刑の執行を待っている被拘禁者の状況が再審査されること」が求められている(資料一、「世界に問われた日本の人権」日弁連)。

4 国連人権委員会拷問報告者の報告

一九九五年二月に公表された国連人権委員会(規約人権委員会ではない)の任命した特別報告者の拷問問題についてのレポートにおいて、死刑確定者が無期限に独居拘禁されていることが問題とされている(資料一〇)。

このことも、日本の死刑確定者の処遇の問題が継続的に国連人権委員会の興味の対象となっていることを裏付けている。

第二 国際人権規約の意味と日本国憲法との関係

一 国際人権規約の直接適用性について

国際人権規約の法源としての性格を最初に説明しておきたい。

上告人は本件措置の違法の根拠として国際自由権規約を直接援用することができる。わが国は、自由権規約の批准国であり、かつ、わが国が条約の直接適用性を認めている国家であることは、憲法学者・国際法学者のみならず、政府自身が規約人権委員会の場で当然の前提としてしばしば説明しているところである。

また、条約が日本の法律よりも法形式上優位することも、争いがない。したがって、現行監獄法やそれに基づいた実務運用に、人権規約違反の事実があれば、これらの措置は国際自由権規約等の条項を直接の根拠として日本国内法上も違法の非難を免れることができないことも多言を要しない。

例えば、一九九三年規約人権委員会の日本政府の第三回報告書に対する審査が実施されたが、この審査において、日本政府代表の國方外務省人権難民課長は、議長の「国内法規と規約の抵触がどのように解決されるのかについて更に情報を提供していただきたい。」との質問に対して次のように述べている。

わが国は憲法九八条二項で確立された国際法の忠実な遵守を定めていると述べた上で、「本条の趣旨に従い、日本が締結した諸条約は、それが日本に適用される場合には、国内法としての効力をもつものと考えられます」「規約と抵触が存在すると認められる限りにおいて、法規を修正することになります。」(資料一、前記「世界に問われた日本の人権」五二頁)

このように、規約には日本国内での直接適用性があることは争いのないところといえる。

二 人権の制限方式、制限事由における日本国憲法と国際人権規約の相違

次に、人権規約と、日本国憲法は人権の制限方式、制限事由において、顕著な相違点が見られることは、現在規約人権委員会委員長(京都大学法学部教授)をされている安藤仁介氏の著わされた「人権の制限事由としての『公共の福祉』に関する一考察―日本国憲法と国際人権規約―」(資料二)にも明記されている。

規約第七条の保障や、生命に対する権利、奴隷・隷属状態の禁止等は、包括的な人権制限に服さない絶対不可侵な人権である。

確かに、日本国憲法は、すべての人権に「公共の福祉」という一般概念による人権制限を認めているかに読めるが、日本国も批准した国際人権規約自由権規約では、包括的な人権制限を許さない「絶対的な人権」を保障したり、また、各種の人権の制限事由を限定列挙するなどしており、憲法の人権保障と人権規約とは、人権保障の内容とその制限の方式および根拠、範囲が異なっているのである。

日本国憲法の人権制限のあり方についても、憲法学会から権利制限の自由を限定的に解釈する手法が提案され、それらの一部は最高裁判決にも取り入れられている。前記規約人権委員会の審査において、日本政府代表の國方外務省人権難民課長は、議長の「日本国憲法の一二条及び一三条で規定されている『公共の福祉』の保護のための制約と、規約の両立について、説明いただきたい。」との質問に対する回答の中で、「憲法は公共の福祉に関して明確な規定を有しているわけではありませんが、しかし、公共の福祉の概念は、裁判所の判例およびそれぞれの権利に固有の性格に関する理論により、特定化されてきています。」と述べている。しかし、このような説明は人権委員を納得させるものとならず、わが国に対する委員会からの勧告書の中で、次のように述べられている。

「当委員会は、規約が国内法と矛盾する場合に規約が優先するものであることが明瞭でなく、又、規約の条項が日本国憲法のなかに十分包含されていないと考える。さらに、日本国憲法第一二条および一三条の『公共の福祉』による制限が、具体的な状況において規約に適合したかたちで適用されるものであるかどうか、も明瞭ではない。」(資料一、前記「世界に問われた日本の人権」二四四頁)。

このように、意味が明瞭でない、日本国憲法にいう「公共の福祉」の内容を明らかにするために、自由権規約に規定する人権制限事由を適用することが、規約批准による国際法上の義務にかなうだけではなく、日本国憲法自体の普遍的な解釈・運用として有用だと前記安藤教授・規約人権委員会委員長の論文も結ばれている。

三 日本国憲法の定める「公共の福祉」を理由として規約上の権利を制限することは認められない。

被上告人は、上告人の国際人権規約違反の主張について、規約の認める制限は憲法所定の「公共の福祉」による制限と同義であるとし、憲法など、わが国の実体法から離れ、別個独立に人権規約の条項を根拠として本件処分の違法性を云々する控訴人の主張は失当であると論じている(平成六年八月三一日付けの被控訴人準備書面一四ないし一五頁)。

しかし、以上に論じてきたように、このような規約の理解はまったく国際人権法を理解しない謬見である。日本国憲法上の公共の福祉概念を理由に規約上の権利の制限が許されないことは以上の規約人権委員会の委員長である安藤教授の論稿から明らかとなった。

人権規約においては、権利の制限事由は、その規約自体に個別に限定列挙されており、また、第七条(拷問及び残虐な非人道的な、品位を傷つける取り扱いの禁止)は、生命に対する権利、奴隷・隷属状態の禁止等と共に、包括的な人権制限に服さない絶対不可侵な人権である。

そして、権利制限事由の意味内容は、規約人権委員会の「一般的見解」という形で公権的解釈として基準が明確になっており、また同委員会において、各事件の判断を通じて、いわゆる判例法としても集積されているのである。規約の解釈に当たっては、わが国の裁判所もこれらの規約の公権的な解釈に拘束される。被控訴人は、国際人権規約批准国として、当然にも、国際基準に合致した人権保障を行う義務があり、規約の解釈については、規約人権委員会の最終的判断に服するのである。

このことに、わが国は未だ規約の選択議定書を批准していないが、この批准がなされれば、最高裁判所の判決は規約人権委員会の再審査を受けることとなることからも明確である。

日本国憲法上保障されていない権利が規約上保障されている場合もある(例えば、外国人の恣意的追放の禁止(一三条)や刑事事件における無料の通訳の援助を受ける権利の保障(一四条三項f))し、日本国憲法上は許される権利の制限も、規約上は許されないという場合がありうるのである。以下に、本件の処分を含む死刑確定者の処遇が規約上どのような評価を受けるのかを検討していくこととする。

第三 死刑確定者に対する処遇は国際人権規約に違反する

一 はじめに

規約人権委員会は現在の日本における死刑確定者の処遇が規約の条項と両立するものでない事を明確としている。以下、いくつかの規約の条項の公権的な解釈に基づいて、死刑確定者の置かれた状況を分析してみたい。

二 生への欲求の否定は生命への権利の否定

1 本件で争点となっている新聞投稿は上告人が死刑廃止をよびかけるものであった。死刑確定者が生命への欲求に基づいて行う活動には再審請求や、恩赦の出願などとともに死刑廃止を呼び掛ける行動が含まれる。

上告人にとって死刑廃止を訴えることは、一般的に自らの意見を表明することではなく、自ら生き続けるための手段としてなのである。そして、広く世論に訴える手段を持たない上告人にとって、新聞投稿は殆ど唯一ともいっていい手段であった。このような新聞投稿を行う通信の自由をも奪うことが果たして許されることなのだろうか。

2 死刑確定者にも国際人権規約第六条一項に定める生命への権利が保障されていることはあきらかである。国際人権規約は、第六条第一項において、「すべての人間は、生命に対する固有の権利を有する。この権利は、法律によって保障される。何人も、恣意的にその生命を奪われない。」と定めている。同条二項は、死刑を廃止していない国における死刑の存在は認めているが、同項と第五項はその適用の範囲を厳しく限定している。又同条四項は、死刑の言渡しを受けた者に対して明示的に恩赦を求める権利を保障している。このように規約第六条は死刑確定者の生命への権利を否定したものではなく、生命への権利を保障しているものと理解すべきである。

3 団藤重光元最高裁裁判官は、「死刑廃止論」(資料四)の中で、次のように述べている。

「ここで、われわれは、『市民的及び政治的権利に関する国際規約』(昭和五四年条約七号)の六条が『すべての人間』に『生命に対する固有の権利』を認めていること、また、『死刑を言い渡されたいかなる者も、特赦又は減刑を求める権利を有する』ことが認められていることを、想起しなければなりません。これは日本国の締結した条約ですから、憲法上も『誠実に遵守』することを必要とするのですが(憲法九八条)、ことに、これらの権利は、この規約の前文にもあるとおり、『人間の固有の尊厳に由来する』ものなのですから、現行法の運用にあたっても絶対に忘れてはならないのです。わたしのいわゆる主体性の理論も、いうまでもなく、人間の固有の尊厳を要請するのであります。わが国では、恩赦の運用が非常に不十分のように思われます。ほかの場所でも申しましたように、恩赦は啓豪時代とくにベッカリーア以来、君主の恣意によるもので望ましくないと考えられて来ましたが、いまではその観念は大きく変わったものといわなければなりません。人権規約の規定に現われた『権利としての恩赦』という観念は、そういう意味で、きわめて重要なのであります。」(一六八―九頁)

「まず注目を引くのは、この一項で『生命に対する固有の権利』がはっきりと保障されていることです。ただ、これが本当に絶対的に保障されるならば、死刑はもはや許されなくなるはずですが、ここでは一気にそこまで行くことはできませんでした。『この権利は、法律によって保護される、何人も恣意的にその生命を奪われない』という、やや控えめな規定になっているのであります。おそらく少しでも多くの国による参加を期待するためには、さしあたり、この程度の規定にとどめるのが賢明だと考えられたのでありましょう。実際に、だからこそ人権の方面では遺憾ながら保守的なわが国も、この『自由権規約』を批准することになったのだろうと思います。

それにしても、この『自由権規約』で、こうして『生命に対する固有の権利』が正面から認められたことは、二項以下の規定とも相俟って、きわめて重要な意味を有するものと言わなければなりません。この第二選択議定書の前文に―前掲のとおり―『世界人権宣言の第三条及び…<市民的及び政治的権利に関する国際規約>の第六条を想起し、<市民的及び政治的権利に関する国際規約>の第六条が、死刑の廃止が望ましいことを強く示唆する文言をもって死刑の廃止に言及していることに留意し』とうたっているのは、まさに、このようなことを言っているわけであります。なお、ここに『世界人権宣言(一九四八年一二月一〇日国連総会決議)の第三条』というのは、『すべて人は、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する』という規定であります。」(一八二―三頁)

このような団藤博士の見解は、死刑確定者が、死にゆくものとして、死をうけ入れるような心情の安定を強制されるものとしてではなく、あくまで、生命への権利の主体として、その具体的な中身としての恩赦、減刑、死刑廃止などを求める主体であることを認めようとするものと評価することが許されるであろう。

4 我が国の恩赦法には、死刑確定者に恩赦を求める権利を定めた規定はない。しかし、現に死刑確定者の中で恩赦で無期懲役となり、仮釈放で出獄してきた者がいる。福岡事件の石井健次郎氏がそうである。この事件は昭和二二年に発生したが、昭和三三年に死刑が確定した。この事件は、教戒師をしていた古川泰龍氏らが再審請求を支援していた。昭和五〇年六月共犯とされた西武雄氏は刑が執行されたが、同日石井氏は個別恩赦で無期懲役に減刑された。その後服役中の生活態度がよかったため、仮釈放が認められたものである。

このように、我が国においても、死刑確定者の恩赦を求める権利は実際にも否定されていないのであって、死刑確定者には、生への希望を与えてはならないとする被上告人の考え方は、規約六条一項四項に真っ向から反するものというほかない。むしろ、規約六条四項があり、法律よりも条約が優位するとの見解をとる以上は、恩赦法の条文中に、死刑の言渡しを受けた者は、恩赦を求める権利を有するとの一条が付け加わったものとして恩赦法を読むのが正当である。

5 また、死刑確定者に再審請求を行う自由があることは刑事訴訟法上も異論はなく、現に数多くの再審請求が申し立てられており、死刑確定者に対して再審が開始され、無罪判決が確定したケースだけでも、免田事件、財田川事件、松山事件、島田事件の四件にも及んでいる。死刑確定者の場合、その再審を求める権利は、規約一四条六項ばかりでなく、生命への権利の具体的な内容として規約六条一項によって保障されているものと考えるべきである。そして、このような長期にわたる再審請求を支えたのは、親族と弁護士だけではない。獄中との文通などを通じて再審請求を物心両面で支えた知人・友人たちがいたからこそ、死刑台からの生還を果たすことができたのである。

死刑確定者に心情の安定を強制するということは、すなわち、このような物理的及び精神的な支援を断ちきり、再審請求を困難とし、断念させ、死を受け入れる心理に追い込むことである。

6 第一で述べたように、死刑確定者の処遇の目的を「生への欲求」を断念させ、「やすらかな気持で刑を受けられる心理状態」に導くことに置くことは、死刑確定者の生への活動を全否定することである。法務省の実際の運用においても、再審を勧めたり、死刑廃止に積極的な者は、親族の場合ですら、面会・通信を認めなくなっている。このような運用は、死刑確定者の再審請求権の行使に対する妨害であり、規約一四条六項、六条一項に真っ向から反するものである。

7 さらに、死刑確定者は、死刑執行停止・廃止の意思表明を行う表現の自由を有する。死刑確定者が憲法二一条、規約一九条に定める表現の自由を有することは争いのないところである。規約六条六項は、「この条の如何なる規定も、この規約の締約国により死刑の廃止を遅らせ、又は妨げるために援用されてはならない。」と定めている。前述した規約の第二選択議定書は、その前文で、「規約の第六条が、廃止が望ましいことを強く示唆する文言で、死刑の廃止に言及していることに留意し、」と述べている。我が国は、この第二選択議定書自体は批准していない。しかし、右の部分は、我が国も批准している規約についての国連の公式の解釈を示すものとして、極めて重要である。

すなわち、我が国も批准する規約自体が、死刑の廃止が望ましいことを強く示唆するものであり、政府は、死刑の廃止の方向で具体的な努力を行う条約法上の義務を負っているのである。従って、死刑確定者が死刑の廃止の為に団体を結成し、自らの経験を踏まえてその見解を外部に表明し、又、一般社会の人々と意見の交流を行うことは、国際人権規約を批准した政府にとって、むしろ奨励すべきことであって、これを心情の安定を害するなどという理由で制限することは、規約六条一項、六項に反することは明らかである。

8 国の主張する死刑確定者の心情の不安定な状態とは、煎じ詰めれば、このような死刑確定者が生きたいと考えて行う諸活動の総体に他ならないことが明らかとなった。従って、心情の安定を図るということは、このような諸活動を全面的に否定し、必然的に、死刑確定者の生命への権利と、思想、良心及び宗教の自由という人間的な尊厳の中核的な部分を否定することならざるをえないのである。

三 面会通信の制限は、思想良心の自由への侵害

1 また、国際人権規約第一八条は次ぎのように定める。

「一項 すべての者は、思想、良心及び宗教の自由についての権利を有する。この権利には、自ら選択する宗教又は信念を受け入れ又は有する自由並びに、単独で又は他の者と共同して及び公に又は私的に、礼拝、儀式、行事及び教導によってその宗教又は信念を表明する自由を含む。

二項 何人も、自ら選択する宗教又は信念を受け入れ又は有する自由を侵害するおそれのある強制を受けない。

三項 宗教又は信念を表明する自由については、法律に定める制限であって公共の安全、公の秩序、公衆の健康若しくは道徳又は他の者の基本的な権利及び自由を保護するために必要なもののみを課することができる。」

心情の安定を図るとの名目で、死刑確定者と外部の者の交通を遮断していくことは、死刑確定者の「死刑制度は廃止されるべきである。」「生き続けて再審を請求して自らの無実を訴えたい。」又は「生き続けて自らの罪を償いたい。」などという宗教又は信念を有する自由を侵害する強制であって規約一八条一項二項に該当するものであることは、明らかである。

そして、このような死刑確定者に対する外部交通権の制限が、監獄法の定めによってではなく、通達によって実施されている。このような法律によらない制限が許されないことは、人権規約一八条三項からも明らかである。

2 また、実体的に見ても、死刑確定者に対して、心情の安定を図るとの名目で、外部の者との交通を遮断していくことは、合理的な制限と考えられず、まして「公共の安全、公の秩序、公衆の健康若しくは道徳又は他の者の基本的な権利及び自由を保護するために必要なもの」とは到底考えられない。

このような措置は、人権規約六条一項、四項、一八条一、二、三項に明確に違反するものというほかない。

四 面会通信の制限は私生活・家族関係・通信への恣意的な干渉

1 現在の死刑確定者に対する厳しい面会・通信の制限は私生活、家族関係、通信などへの恣意的な干渉を禁じた国際人権規約一七条に違反する。

すなわち国際人権規約一七条は

「一、何人も、その私生活、家族、住居もしくは通信に対して、恣意的に若しくは不法に干渉され又は名誉および信用を不法に攻撃されない。

二、すべての者は、一の干渉又は攻撃に対する法律の保護を受ける権利を有する。」と定めている。

一七条について、国連の規約人権委員会の制定した一般的意見(規約の公権的な解釈として尊重されるもの)は、この規約の解釈について、次のような判断を示している。

まず、「恣意的な干渉(arbitrary interference)」について、「法に規定された干渉をも含むものである。法によって規定された干渉であってさえも、本規約の規定、目的および目標に合致しなければならないし、かつまた、どんなことがあろうとも、特定の状況のもとで、合理的な干渉でなければならないということを保障しようとして、“恣意的”という概念を導入したものである。」と説明されている。

2 ヨーロッパ人権条約(人権および基本的自由の保護のための条約―一九五〇年)は、その第八条において、自由権規約一七条に対応する次のような規定をおいている。

「一、すべての者は、その私生活および家族生活、住居並びに通信の尊重を受ける権利を有する。

二 この権利の行使については、法律に基づき、かつ、国の安全、公共の安全若しくは国の経済的福利のため、また、無秩序若しくは犯罪の防止のため、健康若しくは道徳の保護のため、又は、他の者の権利および自由の保護のため民主社会において必要なもの以外のいかなる公の機関による干渉もあってはならない。」と定めている。

この第二項は、自由権規約の“恣意的”という概念をより具体化したものと考えることができる。

この規定によれば、死刑確定者の通信と家族・友人関係に対する干渉は、極めて限定された理由に基づいてしか許されないことが明らかである。公共の安全の観点からの、面会に対する一定の場合の監視や遮蔽板の使用、他の者の権利・自由の保護のため必要な、面会の時間、回数などの制限は許されるであろう。しかし、拘禁施設が、死刑確定者の心情の安定を図る目的で、その面会・通信を拒否することは、公共の安全ともかかわりがないし、健康と道徳の保護とも関係がないし、他の者の権利と自由の保護のため民主社会において必要なものとも到底考えられず、条約八条に照らして、このような干渉はあってはならないものである。このような解釈は、ヨーロッパ人権条約の実施機関であるヨーロッパ人権裁判所の判決からも裏付けられる。このように、ヨーロッパ人権条約の八条が刑務所・拘置所などの刑事拘禁施設において被拘禁者の外部交通権が侵害された場合に適用される規定であることは明らかである。そして、このような解釈は、国際人権規約自由権規約一七条についてもそのまま当てはまるものと考えられるのである。

3 そして、国際的な人権基準から見ると、被拘禁者と外部との面会や通信のやり取りが制約されるのは、極めて限定された場合に限られるのであり、少なくとも、個別的に検討して、具体的な施設拘禁の安全などに対する明らかな危険が認められるようなばあいに限って、制約が認められるに過ぎないのである。死刑確定者の心情の安定などという極めて恣意的な理由によって外部交通を制約することは到底正当化できない。

4 一九八七年、ヨーロッパ人権条約の批准国で構成するヨーロッパ会議が「ヨーロッパ刑事施設規則」を採択した。この規則は、一九七三年に採択されたヨーロッパ被拘禁者最低基準規則を全面的に改正したものであり、ヨーロッパ地域の行刑政策の指針として、ヨーロッパ人権条約の解釈の基準ともなり、世界の人権保障の動向を端的に示す国際人権文書とされている。

ヨーロッパ人権条約は、その第六議定書で死刑制度の廃止を加盟国に対して求めており、ヨーロッパ地域においては、死刑制度はヨーロッパ評議会加盟国では、トルコを除いて実質的に廃止されるに至っている。そのため、同規則においても、死刑確定者についての特段の規定を置いていない。そこでまず、被拘禁者一般の原則規定をみると、第四三 一項では、「被拘禁者はその処遇、保安、及び施設のよき秩序の為に必要とされる制限及び監守を条件として、すべての個人または団体の代表者と通信し、ならびにそれらとの面会を受けることをできるかぎりの回数許されなければならない。」とされ、さらに同二項では、外部との接触を奨励するため出獄許可の制度を導入するものとされている。

5 つぎに、未決拘禁者の処遇についてみてみると、同規則第九二 一項は未決拘禁者にたいして「家族、友人および未決拘禁者が接触するための合法的な利益を有する個人と交通することができるためのすべての必要な便宜」を与えなければならないとしている。

また、同二項は「未決拘禁者は上記の者らと人間的条件のもとで面会を許されなければならない。但し司法執行の利益を守るため、又は施設の安全と秩序を維持するため必要がある場合を除く。」と規定している。

ここで規定されているのは、家族、友人などの面会については仕切り板などのない個室で、立会いも行わないなどの人間的な条件を保障しなければならないということである。そして、司法執行の利益(出頭の確保と罪証隠滅の防止)を守るため、施設の安全と秩序の維持のために必要な場合にかぎって人間的な条件での面会でない面会、すなわち日本では一般的な、仕切り板のある面会室だったり、立会い人が付いたりする面会とすることができるとしているにすぎないのである。ましてや、その友人が面会、通信を求めているときに、これを全面的に禁止してしまうような非人間的措置は同規則からはおよそありえないことである。

6 次に受刑者の場合も参考のために見てみると、同規則第六五 c項は、受刑者の処遇のいくつかの目的の一つとして、受刑者と家族、一般社会の関係について次のように定めている。

「被拘禁者及びその家族の最善の利益を促進することになる、被拘禁者とその家族及び一般社会との結びつきを維持し強めること」

このようにヨーロッパにおける行刑の方向性は死刑確定者も含む被拘禁者一般と家族、友人、一般社会との関係をより強め、また、より人間的な条件での自然な面会、通信を実現する方向に向かっているのである。このような発想からは、死刑確定者となった者と新聞社との信書のやり取りが、死刑確定者の心情の安定を害するから、原則的に禁止しようなどという考えは絶対生まれようがないのである。「一般的な心情安定を害する危険があるので、原則的に面会も信書も禁ずることができる」などとする解釈・運用が、あまりにも荒唐無稽なものであり、私生活および通信に対する恣意的な干渉として、国際人権規約一七条に違反することは以上の検討から、一見明白といえるであろう。

五 死刑確定者の面会通信の制限は被拘禁者の人道的な処遇を定める人権規約七条、一〇条に違反する

1 また、死刑確定者は現在監獄内で、他の被収容者と完全に隔離され、単独の処遇がなされている。このような死刑確定者に対して、家族・友人との接触をも遮断していくことは、拷問その他の残虐な刑罰を禁止している国際人権規約七条と自由を奪われたすべての者に対して、人道的にかつ人間の固有の尊厳を尊重した取り扱いを保障した規約一〇条に違反するものである。一九八八年に国連総会で採択された国連被拘禁者保護原則6は規約七条と同趣旨の規定であるが、この原則の原注は、同項の保護は、「視覚や聴覚、もしくは位置及び時間の経過に対する意識のような自然の感覚の働きを一時的もしくは永久的に奪う状況におくこと」にも及ぶとされている。この注が、長期の独居拘禁をまず念頭に置いたものであることは、アムネスティ・インターナショナルの同原則についての解説のなかでつぎのように述べていることからもあきらかである。「原財6に付された脚注は、長期の独居拘禁を含め、一定の虐待行為に対し、申立てを行なう際に有用なものとなるであろう。」

2 前述のように、福岡県弁護士会は、福岡拘置支所のとった死刑確定者とその養女との面会文通などの交流禁止の措置に対して、国際人権規約一〇条を国連被拘禁者処遇最低基準規則三七、国連被拘禁者保護原則一五、一九とともに引用して、人権侵害と認め、法務省矯正局長などに昭和三八年通達の廃止などの適切な措置をとるよう要請している。

死刑確定者の本件のような外部交通の厳しい制約を含む隔離処遇は、規約七条、一〇条にも違反するものである。

六 結論

以上のとおりであって、本件処分は国際人権規約の六条一項、一九条、一八条、一七条、一〇条、七条に違反する。

第四 監獄法四六条一項違反

一 在監者一般に関する監獄法四六条一項の解釈論

本件では、被上告人らの処分が、監獄法四六条一項に反するか否かが次の争点である。そこで、とりあえず、在監者一般(ことに刑事被告人)を射程に入れて本条がいかに解釈されるべきかを考察する。

1 まず、同条は、在監者一般につき、信書の発受に関する規制を定めるものであるが、信書発受の自由は、各人が自己または他人の思想や情報を相互に伝達する機能を有するものであり、民主社会における思想、情報の自由な流通の確保に不可欠なものであるから、右自由は、憲法二一条の規定の保障下にあるというべきである。

2 在監関係の特殊性

しかしながら他方、同条は、在監関係に関する規制を定めるものであるところ、憲法は、一八条、三一条にて、在監関係の存在をその秩序の構成要素として認めているのであり、よって、在監者の各種自由も、各在監目的のほか、監獄内の規律及び秩序の維持という目的のためにも制限を受けることになる。

但しもっとも、在監関係は、各在監目的のために個人の自由を一定の範囲で拘束するものにすぎず、その関係設定自体により各人からすべての自由を奪うものではないのであり、従ってこれにより拘禁される者は、右拘禁に基づく制約の範囲外では、一般市民としての自由を保障されるというべきである。

3 小括

右に見たとおり、同条は、憲法上の精神的自由に関する規律を定めるものであり、かつ、在監関係からする特殊性が存するとはいえ、その特殊性に基づく自由の規制は、各拘禁目的及び監獄内の規律秩序の維持に必要最小限のものでなければならない。

従って、同条は在監者一般の信書の発受を原則として「許ス」ものとし、例外的に、これを許すと支障を来す場合があることを考慮して、(ア)当該在監者の在監目的を害する場合はこれを防止するために必要かつ合理的な範囲において右の信書発受に制限を加えることができ、また、(イ)これを許すと監獄内の規律及び秩序の維持上放置することのできない程度の障害が生ずる相当の蓋然性があると認められる場合には、右の障害発生の防止のために必要かつ合理的な制限を加えることができるに過ぎないと解するのが相当である(以上の解釈は、いずれも刑事被告人に関するものであるが、監獄法三一条に関する最判昭和五八・六・二二、監獄法四五条に関する最判平成三・七・九の枠組みに従ったものであり、東京地裁昭和六一年八月二八日も同旨である)。

4 「相当の蓋然性」の判断権者、判断方法

(一) では、右「相当の蓋然性」の判断は誰がいかにして行うべきか?

この点につき、前記最判昭和五八・六・二二は、「(図書閲読を許すことにより)監獄内における規律及び秩序の維持に放置することができない程度の障害が生ずる相当の蓋然性が存するかどうか、及びこれを防止するためにどのような内容、程度の制限措置が必要と認められるかについては、監獄内の実状に通暁し、直接その衝にあたる監獄の長による個々の場合の具体的状況の下における裁量的判断に待つべき場合が少なくない」として、「障害発生の相当の蓋然性があるとした長の認定に合理的な根拠があり、その防止のために当該制限措置が必要であるとした判断に合理性が認められる限り、長の右措置は適法として是認すべきもの」とし、右「相当の蓋然性」判断につき、監獄の長の裁量権の存在を認めている。

(二) しかし、右にみたとおり、監獄の長に裁量権が存するとしても、そこでいう裁量は、もっぱら法律要件の認定に関する裁量判断であり、かつ、国民の権利利益を制限ないし侵害する行為の決断であるから、いわゆる、「要件裁量論」にたつにせよ、「効果裁量論」にたつにせよ、その裁量の性質は、覊束裁量と解するべきであり、裁量権行使の適否は、司法の全面的審査の対象になるというべきである。

(三) また、仮に右判断が、いわゆる自由裁量と解すべきであるとしても、自由裁量権の存在それ自体は行政庁の恣意を許すものでないことは当然であるから、その行使の範囲には、当該行政の目的に基づく条理上の制約を免れない。すなわち、右信書の発受に関する許可制は、各拘禁者の拘禁目的や監獄の規律秩序の維持と無関係な目的で行使・発動されることは許されない(ちなみに原判決は、右許可に関する所長の裁量権の存在それ自体からア・プリオリに本件通達や東拘の取り扱い基準の合理性を認め、各通達や取り扱い基準が本件規制目的との関連で逸脱するところがないかの具体的検討を回避しているが、かかる安直な思考は、裁量権の存在それ自体から一足飛びに処分の適法性を論ずるものであって飛躍があり、不当である)。

5 結語

以上に見たとおり、在監者の信書発受に関する監獄の長の許可権限は極めて限定されたものであり、監獄の長は、当該信書発受が、当該信書発受を許すことにより、当該拘禁者の拘禁目的・監獄の規律秩序の維持を害する「相当の蓋然性」があると認められないとみる限り、当該信書発受を許可しなければならない義務があると言うべきであり、右事由が存しないにも関わらずなされた信書発受不許可処分は違法である

二 死刑確定者に対する監獄法四六条一項の適用方法

本件処分は、死刑確定者に対する信書発信の不許可処分の適法性が争点であるから、結局、右に見た監獄法四六条一項の一般的解釈論が死刑確定者に対してもあてはまるのか、それとも死刑確定者としての特殊性から一定の解釈上の修正が必要であるのかが次の問題である。

ところで、原判決は、右の点につき、「法が、およそ死刑確定者を刑事被告人と同様の地位にある者として処遇すべき者としていると解することはできない」とし、死刑確定者については、「刑事被告人の拘禁におけるのと異なった合理的な制約」を課しうるとし、死刑確定者の拘禁目的の特殊性を強調し、本件処分の正当化を図っている。

しかし、我が法の規定形式からも、死刑確定者やその拘禁目的の実質からも決して原判決のような結論に立つことができないことは以下のとおりである。

1 監獄法の規定形式―原判決の批判(一)

監獄法は、九条にて、「本法中別段ノ規定アルモノヲ除ク外刑事被告人ニ適用ス可キ規定ハ……死刑ノ言渡ヲ受ケタル者ニ之ヲ準用シ……」と定め、監獄法上の基本原理として、死刑確定者の処遇は、原則として、未決拘留者のそれに準ずべき立場を表明している。

また、同法四六条一項は、これを受けて、在監者一般に対し信書の発受「許ス」と定め、右以外に、死刑確定者の信書の発受に対する「別段ノ規定」は、なんら存在しない。そしてこれとは逆に、同法四六条二項は、受刑者、被監置者に関し、その信書の発受につき制限的規制を定めている。

つまり、監獄法九条の趣旨、同法四六条一項二項の形式的規定形式(文理・論理)自体から、死刑確定者の信書の発受は未決拘留者と同様に扱うべきことが早くも理解しうるのである。すなわち、死刑確定者の信書の発受についても、在監者一般の解釈論として第一に前述した判断基準が妥当するものであり、それとは別個の基準は全く必要ないことが理解しうるのである。

2 死刑確定者の拘禁目的―原判決の批判(二)

次に、原判決は、「死刑確定者の拘禁は、当該拘禁者に対し生命刑である死刑が執行されるまでの間、逃亡や自殺等によってその執行ができない事態とならないよう、確実にその身柄を確保……を目的とするものである」とし、その拘禁目的は、「社会復帰に向けて教誨または教育を施すことを得る受刑者の拘禁目的とは基本的にその性質や目的を異にし、刑罰の執行ではなく、教誨や教育を施すことをえないという点においては刑事被告人の拘禁に類似する一面があるので、法は、この点の類似性の限度で」刑事被告人に関する規定を準用したにすぎないとする。

しかし、右に引用した死刑確定者の拘禁目的―基本的に身柄の確保にあること―については、その限りで、上告人においても、まさに首肯しうるところであるところ、右拘禁目的を確認しただけでは、死刑確定者の処遇と未決拘留者の処遇を区別だてする理論的根拠たりえない。けだし、原判決も言うように、未決勾留の目的は、「逃走及び証拠湮滅の防止」であり、両者の拘禁目的は逃走(逃亡)の防止という点で全く同様に重なるだけだからである。というよりも、未決拘留者の場合、死刑確定者と異なり、証拠湮滅の防止という観点からの制約をも免れないのであるから、むしろ、未決拘留者の処遇を死刑確定者の処遇より厳格にしてしかるべきなのかもしれないのである。いずれにせよ、死刑確定者の拘禁目的を身柄の確保と確認したところで、その処遇を刑事被告人に比して特殊、厳格化すべき理由にはならない。

3 死刑確定者の社会からの隔離―原判決の批判(三)

また、原判決は、死刑確定者の拘禁は、「死刑執行のため拘禁されている者に対する一般人の感情を慮って被拘禁者を社会から隔離することを目的とする」とし、死刑確定者の拘禁目的に「社会からの隔離」を挙げている。しかし、これまた前述のとおり、法が死刑確定者の拘禁確保のために通常必要とされる以上の厳格な社会的隔離を予定しているものであるならば、法四五条二項、四六条二項に相当する「別段ノ規定」が法の中に存在していなければならないが、かかる規定は全く存在しない。また、原判決のいう社会的隔離論が仮に正当化されるとしても、右隔離は、死刑確定者の再犯防止・一般人の不安感防止を目的とするにとどまるのであり、その目的以上に、極度にコミュニケーションを制限する必要はなく、仮にかかる制限を正当化するとなれば、死刑確定者の拘置に新たな保安処分的機能を付することとなりかねず、刑法四六条一項や五一条が死刑に他の刑を併科することを禁じた趣旨に真っ向から衝突する。すなわち、かかる法の趣旨は、死刑確定者に対する厳格隔離それ自体を何ら予定するものでなく、右は、死刑確定者特有の拘禁目的とは解しえない。

4 死刑確定者の心情の安定―原判決の批判(四)

さらに、原判決は、「死刑確定者は、社会復帰の望みはなく、いずれ生命をたたれることを甘受しなければならないという地位にあるため、これに対する拘禁については心情の安定のための、特別の配慮が必要である」とし、被上告人らのいわゆる「心情の安定」論を肯定している。

(一) しかし、東京拘置所において現在なされている処遇は、およそ「配慮」などという日本語が妥当するものではない。

(二) 現在、わが国の死刑確定者は、全員、外部交通を原則不許可とされて、不利益処遇を受けており、そのため、各地で右不利益処分の違法性を争って国家賠償請求訴訟等が起きていることは公知の事実である。すなわち、被上告人が死刑確定者に対して行っているのは、死刑確定者の心情を理由とする不利益処遇・人権侵害そのものであり、「配慮」などという有り難いものではない。

(三) また、死刑確定者は、受刑者ではないのであるから、その者の意志に反して強制労働などの積極的、強制的処遇を受ける義務はない(受刑者に対しても、労働以外の教育・生活指導を強制することはできないという見解も、近時有力になりつつある)。しかも、「心情の安定」という概念は極めて曖昧な主観的概念であり、外から見ることの不可能な内心の状況である。かかる主観的基準をもとに死刑確定者の自由を制限することは、当局による恣意的な内心の自由の侵害を容認することとなりかねず、極めて危険である。

(四) さらに、被上告人らによれば、「心情の安定」なるものは、「死刑確定者が罪を自覚し、精神安静裡に死刑の執行を受けることになるよう配慮されるべきことは刑政上当然の前提である」との問題意識のもとになされるものであり、「罪を自覚すること」「死刑を精神安定裡に受け入れること」を指向した心情が望ましいものとして要求されているのである。しかし、「罪の自覚」や「死刑を精神安静裡に受け入れること」は、個人の人生観、世界観、死生観と深く関連する事項であり、にもかかわらず、監獄当局がそうした「心情」を害するおそれがある処遇を禁止するとなれば、それが原判決の言うように、「これによって死刑確定者の内心の自由に国家が介入するものとは言えない」などと言えないことはいうまでもなく明らかである。つまり、「心情の安定」を理由とした拘置所の不利益処遇は、一定の思想状態を理由とした不利益処遇になり、憲法一九条が禁止する思想良心の自由に対する侵害にあたることは明らかである。

(五) 右の点につき、東京地判平成六・一二・一三(資料六)は、「もっとも右心情の安定を図る必要性については、拘置所長が死刑確定者の身柄確保の必要性または拘禁施設の正常な管理運営、規律及び秩序の維持という拘禁目的を達成するために死刑確定者との外部交通の許否を判定する一要素となるに止まるものであって、それ自体が死刑確定者に讀罪観念を起こさせ、死を安らかに迎え入れる心境に至らしめることなどの積極的な拘禁目的を形成するものであってはならないことはいうまでもないことである。なぜなら、死刑確定者が自ら罪を自覚し、被害者に対する讀罪観念を起こすことはもとより望ましいことではあるが、これを目的として拘禁施設の現場担当者が死刑確定者を指導することを許容することになれば、国家が死刑確定者の内心の自由を侵害するおそれがあるからである。」としている。

すなわち、右東京地裁判例は、「心情の安定」それ自体を独立の制約事由とはとらえず、右をあくまでも身柄の確保や規律秩序の安定判断の参考資料にすぎないとして位置づけているのである。

(六) 身柄の確保や規律秩序の維持は、死刑確定者のみならず、刑事被告人の勾留についても妥当する事柄であり、その際、有地判のいう限度で刑事被告人の具体的心理状態を右判断の参考資料とすることは一応許されるとするならば、結局、右東京地裁判例の論理に従えば、「心情の安定」論は、何も死刑確定者の拘禁に特有の考慮事項ではなくなるというべきである。右東京地裁の論理は、心情の安定を理由とする権利制限の否定の論理であるといえよう。

このような判断は、本件の原判決とは異なるものであり、このような判断基準によれば、本件処分は違法となる。

6 死刑確定者の市民的自由―原判決の批判(六)

さらに、原判決は、「刑事被告人は、無罪の推定を受けるものであり、その拘禁は、専ら逃走及び証拠湮滅の防止を目的とするものであって、その拘禁に伴うやむを得ない限度の制約を受ける外は、市民としての自由な行動を保障されるべき地位にある者であるから、その拘禁と、前記のような特殊性をもつ死刑確定者のそれとは、およそその目的と性格が異なる」とし、市民的自由の有無という観点から未決拘留者と死刑確定者を区別だてしようとしている。

しかしながら、右において原判決がいわんとすることは結局何であるのか? 確かに、「刑事被告人は、……専ら逃走及び証拠の湮滅を目的とする者であって、その拘禁に伴うやむを得ない制約を受ける外は、市民としての自由を保証されるべき」ことは上告人も首肯しうる。しかし、それに対して死刑確定者はどうだというのであろうか? 原判決は、死刑確定者は、「社会復帰の望みはなく、いずれ生命を絶たれる」から「市民としての自由」は必要ないと言いたいのであろうか? それとも右同様の理由から、「拘禁に伴うやむを得ない制約」以外の制約も甘受しなければならないと言いたいのであろうか? いずれにせよ、人権論の根本をわきまえない恐るべき暴論というべきである。

いうまでもなく、基本的人権とは、人が人たることに基づき当然に発生・享有しうるものであるから、死刑確定者であれ、その享有主体足るべきことは言うまでもなく明らかである(憲法一三条)。すなわち、死刑確定者であれ、公共の目的の範囲内で市民的自由を享有しうるのであり、そうすると、市民的自由という観点から刑事被告人と死刑確定者を区別することは論理に飛躍のあることは明らかである。

7 結語

以上の検討からすれば、原判決が死刑確定者に特有の拘禁目的等として挙げる点はいずれも理由のないものであり、失当であることが明らかである。

確かに死刑確定者と刑事被告人とは、刑法上、刑事訴訟法上の地位は全く異なるかもしれないが、監獄法上、かかる相違をその処遇面にまで反映させて人権を制限する必要のないことはすでに検討したところから明らかである。

従って、監獄法九条は、刑事被告人と死刑確定者の刑法上、刑事訴訟法上の地位の相違にも拘わらず、その拘禁目的や性質の類似性ゆえに、両者の処遇をおおむね同一のものとした趣旨と解されるのであり、このことは、信書の発受に関しても全く同様であるから、結局法四六条一項の解釈として前述した点を死刑確定者に適用するに際し何ら修正すべき必要はないのである。

この点の判断を誤った原判決には、判決結果に影響を及ぼすべき法解釈の誤りがあることは明らかである。

第五 本件通達の違法性

次に、原判決は、「右の見地からすれば、その存在及び内容に争いがない被告ら主張の矯正局長依命通達の内容も、監獄において死刑確定者を処遇する職務を有する者一般に対して示したその外部交通に関する一般的取り扱い基準として合理性に欠けるところはないというべきである。」とする。

しかし、すでにみた監獄法四六条一項の解釈から明らかである通り、右通達は上位規範である監獄法の規定の解釈を誤ったものであり、無効といわざるを得ない。

すなわち、

一 本件通達の目的は、「死刑確定者が罪を自覚し、その精神安静裡に死刑の執行を受ける」ことをねらいとするものであるが、かかる目的自体、前述の通り、思想良心の保障の趣旨に反するものであり、不当である。

二 また、本件通達は、外部交通を制約しうる場合として、例えば「① 本人の身柄の確保を阻害し、または、社会一般に不安の念を抱かせるおそれがある場合」などと、単なる抽象的おそれの段階での制限を許容するものであり、「相当の蓋然性」基準を採用していないが、前述の通り、監獄の長の裁量権はきわめて限定されたものであるから、かかる抽象的制約基準を定めること自体が違法である。

三 また、本件通達は、「② 本人の心情の安定を害するおそれのある場合」などと、「心情の安定」を独立の制約事情とするが、死刑確定者に対する制約基準として「心情の安定」を独立に持ち出すのは前述の通り違法である。

四 右の点につき、前記東京地判平成六・一二・一三(資料六)は、「してみれば、『本人の心情の安定を害する場合』という文言は、死刑確定者心情の安定の確保について格段の配慮を要するというものであって、『本人の心情の安定』のみを独立に取り上げて死刑確定者の自由、権利を制限することを認めた趣旨ではないが、右のような意味に限定的に解釈、運用される限りにおいて、本件通達に基づく外部交通の制限が監獄法の趣旨に違反するものではない」からとして右文言の限定解釈を試みている。

しかし、右通達は、①身柄の確保を阻害、社会一般に不安を与える場合、②その他施設管理に支障を生ずる場合とならべて、それとは別個に「心情の安定」を理由とする制約を宣言するものなのであるから、かかる限定解釈にはおよそ無理があるのであり、右通達③自体を無効としない限り、正しい解釈にはなり得ない。

第六 本件東京拘置所取扱基準の違法性

一 次に、原判決は、本件東京拘置所の一般的取扱基準につき、「また、弁論の全趣旨によって、東京拘置所が右通達に基づき死刑確定者の外部交通に関して採用していると認められる被告ら主張の一般的取扱基準も、死刑確定者の監獄における処遇に通暁した者が、前記の死刑確定者を拘禁する目的、その拘禁の特質、死刑確定者の地位の特殊性に配慮し、ことに死刑確定者の心情の安定を重視して採用したものとして、優にその合理性を肯定できる」とする。しかし、かかる見解が誤りであることは、すでにみた検討から明らかである。すなわち、

二 右基準は、死刑確定者の「心情の安定」を特段に重視し、心情の安定のためには外部との連絡を禁止することが原則であるとの見地からなされるものだが、死刑確定者の拘禁目的として「心情の安定」を特段視し、これを理由に権利制限することは誤りである。

三 右基準は、死刑確定者の外部交通を原則として不許可とし、例外的に、①本人の心情の安定に資すると認められる相手方との外部交通を許可するものだが、かかる基準は、前記した通達の枠組みからみても、原則と例外が逆転している。

すなわち、前記通達は、「本人の心情を害するおそれのある場合」とし、心情の安定にマイナスになりかねない場合だけを視野に入れてこれを規制するものだが、右基準は、「本人の心情に資する場合」とし、逆に心情の安定にプラスになる場合だけを許容するという逆転した立場に立ち、通達の範囲をさらに狭めて死刑確定者の外部交通を全面的に断とうとするものである。

四 このように、右基準は、②本人の権利保護のために必要かつやむを得ないと認められる内容の外部交通を例外的に許容するものだが、ここにみられる被上告人らの基本方針は、権利保障があくまでやむを得ない場合にのみ存するといった転倒した思想であり、それとは逆に基本的人権の制約が必要やむを得ない場合にのみなされるとしたはずの前記の最高裁判例など、さらには現行憲法思想と全く相容れないものである。

第七 結語

以上によって本件をみるのに、原審の確定した事実関係によれば、

一 本件処分は、そもそも、死刑確定者の生への欲求を断ち切る目的でなされたものであるから、上告人の「生命に対する固有の権利」を根本から侵害するものであって、国連人権規約B規約六条一項に反し違法である。

二 本件処分は、死刑確定者に対する過度の人権制限であって、人道的配慮のかけらもなく、残虐な刑罰に該当するから被拘禁者の人道的な処遇を定める国連人権規約B規約一〇条と残虐な刑罰を禁止した同規約七条に反し違法である。

三 本件処分は、当該通信が「公共の安全、公の秩序、公衆の健康若しくは道徳又は他の者の基本的な権利及び自由」を何ら侵害しない内容の通信であるのにもかかわらずなされた通信の制限であるから、上告人の思想良心の自由を侵害するものであると同時に上告人の私生活家族関係通信への恣意的な干渉にもあたるものであり、国連人権規約B規約一七、一八条に反し違法である。

四 本件処分は、死刑確定者の拘禁目的(=身柄の確保=執行の確保)や監獄の規律秩序の維持上放置することのできない程度の障害が生ずる「相当の蓋然性」が認められないにもかかわらずなされた不許可処分であるから監獄法四六条一項に反し違法である。

五 さらに付言すれば、本件処分は、死刑確定者の「心情の安定」をなんら害するおそれのない信書の発信を不許可とし、当該信書の発信を許可しても「社会一般に不安の念を抱かせるおそれ」がないにも拘わらずなされた不許可処分であるから、前述のとおり、違法な内容を含む本件通達をすら、さらに乗り越える超違法なものである。

六 すなわち、本件処分は、国際人権規約B規約六条一項、同七条、同一〇条、同一七条、同一八条及び監獄法四六条一項に各違反するものであり、本件処分を適法と判断した原判決は、右各法令の解釈適用を誤り、ひいては拘置所長の有する裁量権の範囲についての判断を誤ったものであって、その違法が判決に影響を及ぼすべきことは明らかである。

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例